お猿の戯言 homosapiensaru's babble


2011年5月23日[月] その2 特別講義?

パッケージと言えば<br>今年の夏もヨックモックの<br>夏のギフト缶を手掛けました。<br>7月20日には発売しているはずです。<br>臆面もなく宣伝でした。
パッケージと言えば
今年の夏もヨックモックの
夏のギフト缶を手掛けました。
7月20日には発売しているはずです。
臆面もなく宣伝でした。
中身です。<br>ちなみに写真は小さい方の缶です。
中身です。
ちなみに写真は小さい方の缶です。



拓人のオープニングを後にし、南青山へ移動。

パッケージデザイナーの鹿目尚志氏より、鹿目会というパッケージデザイナーの集まりがあるのでゲスト講師として参加して欲しいとオファーがあった。こんな私でよろしいのなら…ということでお引き受けしたもののこの当日までドキドキものだった。

指定された会場に着くと20名ほどの方たちがお集まりになられている。フリーのパッケージデザイナーの方や有名企業のデザイン室でパッケージデザインを手掛けている方たちで、みなさん凄い方ばかりだ。こんな場にいていいのかと背筋を伸ばす。

その場を見渡すと見知った顔があった。
やばいなぁ、大学の同級生だよ!資生堂のパッケージデザイナーの松本泉だ。相変わらずスマートでクールなやつだ。
同級生の前で自分のクリエイティブの話しをするなんて胃が縮む思いだ。

といっても今更この場を逃れる訳にはいかず、レクチャーを始める。
まぁ、結局いつもの話しをするしかない訳なのだが…。

時間が来て、みなさんからいくつか質問があり、一応無事(?)終了した。

その後、レストランへ移動して懇親会となった。
素敵なレストランの2階が貸し切られていて、そこでもまた食事とお酒を楽しみながら歓談し、愉しくも不思議な時間を過ごさせていただいた。
メンバーの中に服部一成氏のお姉さまがいらして驚いた。絵具の話しなどをして盛り上がった。

自分は、普段はグラフィックデザイナーやイラストレーターといった職種の人とお会いすることが多いので、パッケージデザイナーの方々と交流を持てたこと、大変有意義だった。

有意義というか興味深かったことを最後にもうひとつ。
この会の中心人物である鹿目さんは東京藝術大学の前身である東京美術学校の最後の学生であり、油画の梅原龍三郎氏のクラスだったそうだ!第二次世界大戦の東京大空襲のときも授業を受けていたそうだ。
そんなお歳には到底お見えにならないので吃驚だった!歴史を身近に感じた瞬間だった。


世界は深いなぁ。




2011年5月23日[月] 遠藤拓人の個展のオープニングだ!



最近はイラストレーターとして大活躍の遠藤拓人。
我が研究室のOBだ。

ギャラリーハウス・マヤで個展を開催している。
オープニングパーティに顔を出す。

いいねぇ。
今回のは、拓人らしくて好き。

拓人よ! 血迷わずに(笑)、Going Your Way! だ。 GO! GO!




2011年5月16日[月] 河村要助展へ



近年体調を崩されたご様子ですっかり身を潜めてしまっているイラストレーターの河村要助さんだが、銀座のクリエイションギャラリーG8で展覧会が行われている。

久しぶりにこうしてギャラリーで要助さんの一堂に集められたたくさんの仕事を拝見すると、忘れかけていたイラストレーションの役割と意義と可能性が見えてきてエキサイトした。忘れかけていたというのは、昨今のグラフィックデザイン業界は不景気の所為か全体に元気がなく、クライアントらの無難な思考が蔓延っていて、クリエイティブな表現がなかなか見られず、面白くないことを揶揄してのことだ。

今日は銀座で打ち合わせがあったものだからG8へ廻ってみたら、ちょうどトークショーが開催されていた。肝心の要助さんは不在だが、我が師匠の佐藤晃一先生(要助さんとは大学の同級生だ)が説得力のある熱弁を振るわれていた。ここへ来て、イラストレーションとは何たるかをガツ〜ンと叩き込まれた気がする(汗)。

イラストレーションはやはり興味深いものだ。
わがままには振る舞えないが、わがままに見えるように振る舞うことができる人が面白い仕事をする。ファインアーティストとは違う作家性が必要だ。


図版は、クリエイションギャラリーG8から転用させていただいた。




2011年5月13日[金] 原宿へ

キラキラ輝くブレンゲン。<br>ボイ・キング・アイランズ。<br>一匹は年若いタスカホリアン、<br>もう一匹は人の頭をしたドロテリアン<br>Collection of Kiyoko Lerner ⓒKiyoko Lerner 2011
キラキラ輝くブレンゲン。
ボイ・キング・アイランズ。
一匹は年若いタスカホリアン、
もう一匹は人の頭をしたドロテリアン
Collection of Kiyoko Lerner ⓒKiyoko Lerner 2011
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アメリカン・アウトサイダー・アートの代表的な作家の一人として知られるヘンリー・ダーガーの展覧会が開催されているが、そろそろ終わる頃、時間を作ってラフォーレミュージアム原宿に出かけた。




ヘンリー・ダーガーの人生は数奇である。

生涯を孤独に生きたヘンリー・ダーガーは4歳になる直前に生母と死別。
貧しさのために妹は里子に出され、その後会うことはなかったという。
足の不自由な父に育てられるが、8歳のとき父親が体調を崩したため施設に入れられる。
12歳の頃、感情障害の兆候が現れたという理由で、知的障害児の施設に移された。
15歳のときにその施設で父が死去した事を知る。翌年16歳のとき施設を脱走。
260kmもの距離を歩いてシカゴに戻り一人暮らしを始めたという。
その3年後、19歳のときから『非現実の王国で』の執筆をし始めた。
(その作業は死を迎える半年前の63年もの間、誰にも知られることなく続けられたそうだ。)
80歳のときに病気のために救貧院に運ばれた。その後、部屋の管理のため、彼が40年来住んできた部屋に大家のネイサン・ラーナーが入ったとき、膨大な数の挿絵と彼の小説『非現実の王国で』が発見された。

そこには子供を奴隷として虐待する暴虐非道な男たちを相手に、壮絶な戦いを繰り広げる7人の美少女姉妹(ヴィヴィアン・ガールズ)の物語が、15,000ページ以上にわたり綴られていた。
アーティストでもあったネイサン・ラーナーは驚嘆し…死んだ時には全ての持ち物を焼却することをダーガーが希望していたにも関わらず…作り手の意志を超え彼女は彼の創作物を残し、部屋をもそのままの状態(2000年まで)で保管することにしたという。


誰が描いたのかわからない絵画の一断片でも、作品が優れていれば、時代を超えて人の手から手へ美術品として渡っていき、後世の者たちへ残り受け継がれるものになっていくのだから、彼の残した膨大な狂気にも満ちた作品たちは当然残されていくもののひとつであったのかもしれない。彼が病気を患い部屋の片づけをする間もなく病院へ運ばれたことにも何か意味があるのかもしれないなどと考えてしまうのは危険か。
彼の残したものたちが際立って興味をそそるのは、悲惨な彼の境遇も大きくこれに加担しているが、もうひとつには、彼独特の色彩センスがこれを助けている。


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アーティストとしての自覚もなく、誰の眼にも触れさせることなく描いた彼の作品は、アマチュア以前の創作物といえる範疇のものだったのだろう。しかし、自分を満たすためにコラージュやサンプリングや転写(写真を使って引き伸ばしてもいた)といった、恐らくは素人故のうまく描けないことを回避するために編み出された彼独自の技法が、実は当時では斬新なテクニックでもあった。
(実際に、自分は彼の描く人物などに用いられている輪郭線に興味を惹かれた。図版で見たときには、版画による線描なのか、手で描かれたものなのかと思案したものだ。)
自分というたった一人しかいない観客に向かって、その満足度を昇華させるために養っていった表現の飽くなき追求とその純度の高い創作力が後の者たちに深い感銘を与える結果になったのだ。


人の気持ちを動かすとはいったいどういうことだ。
感動を与えるとはどういうことだ。
絵なら、絵に表したいことがまずあって、そのためのテクニックを用いて作品ができ、そういった情念に結びつくのはその先のことであり、すべてがそうなる訳のものでもない。そのことを考えて制作に走るということは本末転倒であろう。それが先に来ることは本来ありえないことだ。

昨今の世の中は職業に結びつけて考えがちだ。つまりは金だ。
何かにならなくてはと強く思い過ぎではないか。

大学で教えていても職業で考えるからぎくしゃくしてくる。
何かになるための通過地点と捉え過ぎではないか。

表現を扱うのなら、なおさらのように思う。
もっともっと純度の高い場所で思考・実践した方が健康的だ。


誰もが自分が心底好きで描いたものがいくつもの表情を持っていても何ら差し支えないはずだ。
何かになろうとすることで喘いでいるし、道を狭めている。



恐らく趣味で描いていたであろうヘンリー・ダーガーの作品に間近に触れ、純さと狂気にやられた。




2011年5月9日[月] 銀座へ

今回の個展の告知ポスター
今回の個展の告知ポスター
学生のときだ、このビジュアルを観て、 <br>身体に電流が流れた!
学生のときだ、このビジュアルを観て、
身体に電流が流れた!



恩師・佐藤晃一先生の個展に伺う。

大学も終わる頃、グラフィックデザイナーの佐藤晃一先生がデザイン学科で教鞭を執られることになり、いたく感化を受けていた自分はすこぶる感激したのを覚えている。
直接の授業は受けられなかったが、スクラップブックのような作品を寄せ集めたスケッチブックをポートフォリオ代わりに見ていただいたりし、なんとも贅沢な教えをいただくことができた。

当時の東京藝術大学のデザイン学科の教授陣には、グラフィックデザイナーの福田繁雄先生や画家の有元利夫先生といった現役ばりばりの凄い先生方がおられ、クリエイティブの刺激をこれでもかというくらい受けたものだ。


佐藤先生にお会いしたく、珍しくオープニングに顔を出した。
久しぶりの先生は、お元気そうで一安心。先生自身から二次会に誘っていただき、結局お開きの時間となるまで、おつきあいさせていただいた。大学の先輩や後輩も大勢いらしていて、大変有意義な時間を過ごさせていただいた。


展覧会は、一階、地階ともB1のポスターが二段掛けで所狭しと並んでいて、圧巻だった。昨今、紙にオフセット印刷というメディアを用いたB1タテ位置のポスターが追いやられてきているので、ポスター文化の旧き善き時代の産物として佐藤先生の仕事が見られてしまう側面があるのはどうしても否めないと感じざるを得ないのではあるが、ひとつひとつのポスターへの、仕事に対する気迫というか魂の込められ方のその入り方、入れ方はとにかく尋常ではない。テンションや気品の狂気的な高さやそれを維持するための気高く強靭な精神性など、見るべき、学ぶべきことが多い。

すべてのポスターから、叱責と叱咤を受け、反省と懺悔に三回も会場に足を運び、その都度誓いを立てさせていただいた。

師匠の壁は厚く高い。
だからこその師匠だ。

ああ、ありがたや。ありがたや。




2011年5月4日[水] 横浜美術館へ



銅版画家・長谷川潔展を観る。

特にいいかなと思っていた展覧会だったが、「開運!なんでも鑑定団」にこの作家の作品が登場し、あっ、やっぱり観とこ〜という気持ちになって、な〜んの予定もない連休の最中、横浜まで出かけてみた。

とても丁寧な仕事だ。特に晩年のマニエール・ノワール(メゾチント)が生み出す深淵で静謐な漆黒の空間は凄い!息が詰まるほどの細かい仕事ぶりだが、作品からは宇宙を感じさせる決して厳しいだけではないオーラが出ており、人が生きていることを真摯に考えさせる深い作品だ。黒の世界なのに暗くなく、観る者を暖かくさせる不思議な世界を創出させていた。

晩年、信頼できる刷師が亡くなったあとは、自分の作品世界のクオリティのレベルを下げることを嫌い、刷ることをしなかったという。この崇高な精神。

なかなかできないことだが、これをしなければいけないのだな。