お猿の戯言 homosapiensaru's babble


2008年10月18日[土] 骨董を愛でる日


午後、大学で父母懇談会があるのだが、その前に東京美術倶楽部へ東美アートフェアを観に行く。

骨董である。骨董は面白い。買うとなるとまた話は別であるが、観るのは大変勉強になる。本当は本物の美術作品を手元に置いておくのが何よりの勉強だと思うが、欲しいと思うものはみんなとてもお高い。数百万円から何千万円というものたちだから端っから諦観である。
この展覧会の興味深いところは、触れるところ。お茶碗なんかでも直に手に取って観ることができるのです。裏っ返して高台なんかをしげしげと眺めることができるのです。売っている訳ですから当たり前ですかね。

去年と比べると今年の出品物はやや面白みに欠けるか?

しかしながら、俵屋宗達の扇面画があった。
岩絵具の緑青の色が大変美しくそのマティエールが心を捉えた。冴え渡っているというよりはすこしぼてぼてした厚みがあり、これまで観たことのないタイプのものだった。
お値段をお店の親父に聞くと、850万円ほどだという。宗達にしては意外と安いですねと言うと(もちろん買おうと思って聞いている訳ではないが、美術の一つの側面として金額というのは面白いものだ)なぜこの金額なのかという話をし始めた。
「元々は、貼り交ぜ屏風になっていたものを一枚一枚剥がして額装したものです。中でも人気のある絵、不人気な絵というものが在って、これはいい絵ですが、そういうものに比較するとやや劣るものですから、そんな事情なんです。」…と。
確かにそう言われると何かがきちっと描かれている絵ではなく背景的な内容であるが、そんなミニマルな感覚が僕にはたまらなくいいのです。

平等院の内壁に浮遊する楽師たちの乗っている雲と同様のものが展示されていました。不完全なものでしたが、大きさがタテ30cm、ヨコ45cmくらいでしたでしょうか。思わずお店のおばさんにおいくらですか?と聞いていました。勿体ぶって答えてました。「100万円台の後ろの方でございますのよぉ~ん、おほほほほ…。」

鎌倉時代のものだという肘から先の仏手がありました。指の表現が何とも言えません。微笑ましい素敵なフォルムを成していました。鎌倉時代の仏画は厳しさがあって好きですが、この彫られた手にはおおらかさとユーモラスな暖かさが在りました。

他には、良寛の書であるとか、寒山拾得図などに惹かれました。そうそう、洋画家の須田國太郎の絵がありましたが、この人の絵は何とも言えぬマティエールの面白さがありますねぇ。よかった。古いからいいのではなく、いいから古びても残っているものたち。そういった幾時代も付いた貫禄の美を前にするといいものというものの本質を感じることができるんですね。美のエッセンスを学ぶには骨董を愛でよ…です。



2008年10月17日[金] 岡村桂三郎展


惜しくも、銀座のコバヤシ画廊の個展を見逃してしまったが、鎌倉で開催中の岡村桂三郎展へ自分の個展の前にどうしても観ておきたくて出掛ける。この人もほぼ同い歳。

鎌倉は、いつでも混んでいる。

神奈川県立近代美術館の鎌倉館は鶴ヶ岡八幡宮の境内の一隅にある。ル・コルビジェの元で修行した建築家坂倉準三が設計したもので、ヴェネツィアにあるサン・マルコ大聖堂にインスパイアされて設計したと聞いたことがある。久し振りに訪れるとさすがに老朽化が著しい。部屋の一部は耐震の関係で閉鎖されていた。


さて展覧会はというと、フライヤーのビジュアルから勝手にイメージしていたので、最初の部屋に入ったときの窮屈さはなんとも歯痒く、展示空間と作品がうまくフィットしておらず違和感を覚えた。描かれた絵を観るというよりも全体の雰囲気というかその場を体感するといったものだったが、どちらかというと絵を期待してしまっていたので、肩透かしを食らった感じではあった。近距離過ぎるから絵の内容が判らないという訳でもなく、離れて観ても茫洋としたものなのでインスタレーションと呼ぶのが相応しいのだろう。

勝手に自分の中でイメージを造り上げてしまい過ぎたか…何か物足りない。
乱暴だが、観ながら彫刻家戸谷成雄の仕事を思い出し、比較をしながら観てしまった。戸谷氏のインスタレーションはどこか異次元へ魂を運んでくれる。それは崇高な場所へ連れて行かれるというよりは精神を遊ばせ、喜びを感じさせてくれるものなのだ。
岡村氏の作品は何かもうひとつ薄い。描こうとして選んでいるモティーフの意味と全体の雰囲気の良さは解るのだが、今ひとつ伝わってくるものが脆弱な気がするのはなぜだろう。素材感の中に大事なものが埋もれてしまってはいないか。

同世代の仕事を観るとなるとつい厳しくなるが、それは岡村桂三郎氏への大きな期待でもあるのだ。

→ http://www.moma.pref.kanagawa.jp/public/HallTop.do?hl=k



2008年10月12日[日] 金木犀


金木犀が香る季節ですね。
普段ははっきり言って自分の中で日常の中に埋没してしまう植物です。この時期以外に金木犀が意識の上に登るってことがないように思えるんですがいかがでしょうか。葉もちょっとくすんだ感じの濃い緑色で決して美しいとは言えないし、ビジュアル的には別にどうってことのない樹だなと思っていました。

秋のお彼岸の頃になると花が咲き、街を歩くと素敵な香りが鼻先に届いて、少し特別な樹になります。やや淡いオレンジ色の花(銀木犀は白い花が咲きます)が固まって枝にくっついています。その様子もあまり綺麗には見えません。花のつき方も、神様はどこから生やすかを最初からきちんと考えていなくて、「いけねっ、忘れてた!」的な勢いでここからこういう風に出しちゃえというような乱暴に決めてしまったような怪しい感じがします。なるほど感がそこは弱い気がするんですね。そんな印象なので、これまでは香りが運ばれてきても特に気にせず通り過ぎていましたが、あるとき間近に見る機会がありました。

なんとまぁ可憐な花なんでしょう!

至近距離で見るそれは遠目で見ていたときのそれとは全くと言っていいくらいイメージが違うのです。花の形の愛らしいこと!愛らしいこと!恐らく紫陽花と一緒で花びらに見える部分はガクなのでしょうが、それが意外と肉厚でふくらみ加減もまた愛おしいんですね。とにかく形がいいんです!形が!
それからというもの確認するように毎年、金木犀の香りがすると花のフォルムを見たさに近づいては、「おぉ~!」と声を上げています。

それ以来、金木犀のように花が固まって咲く植物を観察してみると、花のひとつひとつの形が綺麗なものが多いことに気がつきました。金木犀のお陰でそんなことにも気がつくことができたんですねぇ。金木犀に限らず植物を見ていると、花びらと葉と茎との素材感の違いに気づきます。緻密さと大胆さが入り交じったそのコーディネートの妙にも驚かされます。ミラクルというか、神秘というか、自然の造形力の偉大さに脱帽してしまいます。

中国ではこの花を桂花と言って、お酒に使用します。そうです、「桂花陳酒」がそれです。中国の白ワインです。
金木犀は雌株と雄株があるそうですが、日本には雄株しか入っていないそうです。ですから実を結ばないのだそうです。ネット上で見ることができましたがこの眼で金木犀の実を見てみたいものです。「実」というこの響きの持つパラダイスへ誘う感覚、たまりませんね。エクスタシーを感じてしまいます。その話はまた。




2008年10月11日[土] 液晶絵画


恵比寿ガーデンプレイスの一画にある東京都写真美術館に「液晶絵画」展を観に行く。

メディアがこれだけ発達している状況下で、キャンバスや紙に描いたものを発表することだけが絵画ではなくなるだろうことは容易に考えられることである。いわゆる絵画が消えてなくなる訳でもなく、今後ますますメディアを活かした絵画表現が可能になって来たと言える。「液晶絵画」という言い方にそそられもした。自分も絵具へのこだわりから各メディアへのアプローチの面白さに興味を持ち始めていることから気になっていた展覧会だった。

千住博の作品はこの微細な動きが伴った方が彼のペインティングの作品よりも説得力があると感じた。
興味深かったのは、サム・テイラー=ウッドの「もの」が腐って行く過程を見せて行く作品だ。我々が変わらない物として認識している周囲の物たちが実は刻一刻変化をしていて、常に同じ表情をしているのではなく諸行無常であるのだということに気づかせられる。その朽ち果てて行く様は、気持ち悪さよりも美を感じてしまう。果物についたカビたちがことのほか綺麗だった。
また、静止画としては全く興味のないジュリアン・オピーの作品が面白かった。一見静止画のように見える女性が立っている作品は、じーっと見ているとまぶたを閉じたり、眉を動かしたり、口元が緩んだりとちょっとした仕掛けがしてある。オリジナルを前にしてその人気ぶりが理解できた。やはり本物を観ずに判断をしてはいけないな。


→ http://www.syabi.com/


出品作家にブライアン・イーノの名前があり、懐かしくそのブースに入った。「サーズデイ・アフタヌーン」(1984年)を展示していた(この同名のアルバムは当時ヨガを習っていてその時間によくかけていたなぁ)。彼は一方でミュージシャンである。むしろそちらの方が有名である。美術学校を卒業後、ブライアン・フェリー率いるロキシー・ミュージックに加入し二枚のアルバムに参加した後、ソロ活動を始めAmbient series等、環境音楽やニューエイジ的な方向に向かって行く。
この最初のアンビエント・ミュージックである「Ambient 1 / Music for Airports」(1978年)は、当時大学生だった自分に相当な影響を与えたものでした。ブライアン・イーノの音楽を知ったことと、エリック・サティの音楽に出会ったことで、現代音楽や特にミニマルミュージックに傾倒して行ったものでした。あぁ、懐かしい。

ミュージアムショップ(ここにはNADiffが入っている)に立ち寄ると、アルバムでしか持っていなかったイーノのOBSCURE series「DISCREET MUSIC」のCD版が置いてあるじゃありませんかぁ!しかもその横にはなんとぉ!スウェーデンの三人グループ「Tape」のCDが三枚も並んでいる!ぎょえ~!…って言うほどではありませんが(笑)、衝動買いです。イーノ三枚、Tape三枚、計六枚購入してしまいました。イーノのAmbient seriesとObusucure series、Tapeのジャケットのグラフィックはイカしますよ!

その後、研究室に入るとすぐに聴いてみましたが、今、やはりというかなんというか自分の気持ちは「Tape」に軍配を上げてしまいました。時代という感性は確実に何かを淘汰して行くものなのでしょうか。でも、イーノの「DISCREET MUSIC」と「Ambient 1 / Music for Airports」はぜひ聴いて欲しい音楽です。そうそう、先日の「Tape」の渋谷でのライブには行くことができませんでした。残念!

「DISCREET MUSIC」1975年 東芝EMI VJCP-68702
「Fripp & Eno Beyond Even (1992-2006)」2007年 Opal IECP-10142
「BRIAN ENO THE SHUTOV ASSMBLY」2004年 Opal ASCDA42
「Tape Opera plus」2002年 Hapna-jp 1/HEADZ 115
「Tape Milieu plus」2003年 Hapna-jp 2/HEADZ 116
「Tape Luminarium」2007年 Hapna-jp 3/HEADZ 117

後日談:家に帰ったら、ジャケットデザインの違う「DISCREET MUSIC」のCDアルバムをちゃんと持っていたのです。とほほ…すっかり忘れてた。



2008年10月10日[金] エモーショナル・ドローイング




竹橋の国立近代美術館にエモーショナル・ドローイング展を観に行く。

芸術の役割は何であろうか。
ヘヴンはここまで低く降りて来てしまったのか。

闇を知ることは暗くなることではないし、ネガティブなものを視つめたとしても病気になることではない。
この世を生きる以上、この世の辛さを訴えても仕方がない。この世は辛いところだからだ。

灰色のもやもやを抱えて美術館を後にした。

それでも奈良美智の2008年作の鉛筆によるドローイングの女の子の瞳の透明感にはうるうるとエモーショナルな気にさせられた。また、バンコク生まれのピナリー・サンピタックの作品に触れて、自分の20代の頃の作品を見るようで不思議な気持ちになった。ブリキの函はアイデアだな。

→ http://www.momat.go.jp/Honkan/Emotional_Drawing/#outline



2008年10月7日[火] 原研哉展オープニング


原研哉氏の個展のオープニングに伺う。
原氏とは長野オリンピックの仕事などいくつかの興味深い仕事をご一緒させていただいている。
先日、贈られてきた「白」というタイトルの著書を拝読したとき、ぼくは思わず襟を正さざるを得ない神妙な気分になったものだ。今回の展覧会も同様の「白」というタイトルがつけられている。
会場はなんともスタイリッシュな空間で、全体に黒を基調としたレイアウトの中で主役である「白」が浮かび上がるような構成になっている。
ミニマルとかシンプルといった単純な言葉では原氏の仕事を説明できない。塗り込んでも塗り込んでも絵具の斑が出ることなく、むしろ重ねることで煩悩が消えて行くような仕上げ方である。あまたの要求を打ち消すかのように画面は整理整頓され静寂に満ち静謐なものに向かうように仕向けて行く。手数が少ないから白っぽくなるのではなく、逆に無数の手が入り練り上げられた「白」い作品が出来上がって行くのだ。ぼくの勝手なイメージとしては、音を執拗に重ねて行くことでむしろ無音に近づいて行くといった表現であるように思う。
デザインの現場では自由さは意識的に作り上げなければならず、決してデザイナーという人が自由というものの上に立って創造している訳ではないということがよく伝わってくる展覧会である。どんなに水面を優雅に滑っているようにみえても水中の水鳥の足は忙しく水を掻いているのだ。おぉ原さん、お疲れで~す。ファイト~!

→ http://www.dnp.co.jp/gallery/ggg/



2008年10月04日[土] オープニングパーティラッシュ


土曜日だというのにオープニング・ラッシュ。
今日は、兜町と赤坂と西五反田へギャラリーのはしごです。

まずは、兜町はunseal contemporaryへ。我が東京工芸大学の卒業生、加藤遼子の四回目の個展だ。個展のタイトルは、「Kakame」。古語で鏡または蛇の眼の意だそうだ。彼女は、学生の時に村上隆主催のGEISAI#4で受賞し、人気作家になった。学生の頃からのテーマを描き続けている。2年生の頃から一際異才を放っていたのでよく覚えている。今年、イラストレーション論の講義にゲストとして呼んで、「イラストレーションとアートについて」というテーマで語ってもらった。歪んだ社会に警鐘を鳴らすタイプの画家だと言える。彼女の絵と対峙するときいつも思うのは、もっと芸術性が出てもいいんじゃないかということだ。あの絵具の無防備な感じは狙っているようには思えない。絵画というオブジェとしてのクオリティをもっともっと高めて行って構わないと思うのだがどうだろう。イメージやメッセージを伝えるだけではない、神技とまでは言わないまでも、えも言われぬ彼女ならではの甘美なテクスチャーを期待する。数ヶ月ぶりの彼女は相変わらずの表情で安心しました。

→ http://www.unseal.jp

ⓒRyoko Kato “Kakame” 2008年
ⓒRyoko Kato “Kakame” 2008年


茅場町から日比谷線で六本木へ移動する。続いて、東京ミッドタウンの脇に新しくできたギャラリーへ。このGALLERY TRINITYは、バニーコルアート株式会社(リキテックスの販売で有名?)が主催している。このギャラリーと専属契約した知人のsieが、杮落としの三人展のお知らせをくれた。いつも個展の案内状をいただいているのにやっと顔を出せました。
sieとは、いつどこで知り合ったのだろう?確か都立大だか、学芸大だかの雑貨屋の一隅で催された彼女の個展の会場だったか?いや、その後だったか?当時、彼女から送られてきたDMの絵を観て、素直に観たい絵だと感じて出かけたのを思い出す。
最初に観たときから絵の印象は変わっていないが、自信のようなものが画面から溢れている。ドローイング的手法をベースに据えた色彩感覚に富んだ気持ちのいい作品だ。欲を言えば、強くなって欲しい。彼女にとって慣れきった画材たちを少し疑う時期に来ているように思う。疑うというか、そのマテリアルを替える必要はなくとも構造的な強さ、確かさを備えて行くようにすると一層深まりそうだ。
久し振りのsieちゃんは元気そうで、「やったるで!」という感じが彼女全体からにじみ出していて頼もしかった!

→ http://www.g-trinity.com

ⓒsie「女の子って」2008年
ⓒsie「女の子って」2008年


さて、続いては五反田へ。六本木から日比谷線で恵比寿へ出て、山手線に乗り換え五反田へ。
目黒川沿いを歩き、首都高をくぐるとすぐだ。駅から7〜8分歩いたか。
山本タカト氏の個展だ。20代の頃から彼とは面識があるが、凄くなったよねぇ〜というのが最近の彼に対する一番の思いだ。眼を見張るのは、年々巧さを増して行くこと。
若い頃はインスタレーションを仕掛けたりという現代美術志向の作家であった。東京造形大学絵画科を卒業してから8年後こういう世界へ転向している。浮世絵との出会いが彼を強く方向転換させたのだろうか。いやはや脱帽である。彼の「倒錯的エロティシズムとストイシズムが同居する独特な画風」を表現させるのに、浮世絵的手法を採ったのがよかった。僕も浮世絵が大好きだからという短絡的な思いもあるが、この浮世絵的手法が彼の耽美主義的な表現の可能性を加速化し、独特なスタイルの確立に大いに影響した。彼の思想をうまく表出する文脈を見出したという感じだ。
自分の浮世絵好きは、彼のように絵の全体のスタイルを決定づけるものではないが、相当インスパイアされ影響されている。
会場では、タカト氏はもちろんのこと彼の奥さんや空山基氏トレヴィルの河合氏など久し振りに会う顔ぶれと談笑し、楽しいひと時を過ごしました。

→ http://yamamototakato.com/

ⓒTakato Yamamoto 2008年
ⓒTakato Yamamoto 2008年