お猿の戯言 homosapiensaru's babble
2016年12月11日[日] お寺の仕事を追い込みながら
絵を作るとき、如何せん how to draw なんていうのを持ち合わせていないので、こうしてこう描くと谷口の絵になりますよなんてことにはならない。ただ何かが降りてくるという瞬間があるということには氣づいているから、ひたすらそれを待つための場を整えるといったことは氣にしている。自分の風貌からすれば降霊術を施す僧侶といった感じか。高級霊が降りてくるためにはそれなりの禊が必要だ。禊からトランス状態に入り込めればしめたものだ。いいなと思える作品ほど自分でどう描いたかがわからないので、恐らくは肉体はここにいながら精神はあちら側へ出かけ、制作しているのだろうと感じている。
投稿した千手観音は、お寺の仕事で仏陀を描くことになり、たくさんの仏さまの御顔を調べていくうちに出会ったものだ。描くならいい顔にしたいと、仏画の載っている画集をいくつもひっくり返したり、高名な日本画家の描かれたそれも複数観てみたが、これだ!という御顔のものにはなかなか遭遇しない。個人的な好みということも働くのだろう。何れにしても顔というものはいつの時代にもそれだけむずかしいものだということなのだろう。
この千手観音の御顔は観た瞬間「いい」と思った。では自分が一体何をもってしてこれを善しとするのか、己の美の基準はどこからやって来るのか、自分だけの好みに終わらず普遍的な価値観がそこに備わっているのか…といった普段何気なく感覚的に行なっていることがある。そうしたことを感覚的なままで終わらせず言語化していく作業が必要と感じた。やっと終わりの見えてきたお寺の仕事は、釈迦の一生と関わりながら自己と向き合う作業となった。