お猿の戯言 homosapiensaru's babble


2009年5月31日[日] 雨降り


20年 ほど ほったらかして おいた
万年筆を ひと月 ほど 前に
手当を 施して 甦らせ たら
最近に なって ようやく リハビリを
終えた のか 寝床で スケッチブックに
イタズラ描きを する ように なった

君の 書く 特に 文字が 好きだ


今日で 五月も 終わり ます





2009年5月28日[木] 最近のカタチ


最近、気がつくとこんなカタチを描いている。
無花果や石榴の実を描きたいのではなく、宇宙の理が潜んでいるようなモティーフに惹かれるのだ。




2009年5月26日[火] ごぶさたでした


いろいろとネタはありつつも日記に向かえないありさまだった。


二週間ほどの間に、大阪へ展覧会を観に行ったり、大学のイベントに向けて映像作品を作ったりと相変わらずの暮らしぶりをしていた。


大阪は、国立国際美術館へ行った。「杉本博司 歴史の歴史」を観てきた。
大変興味深く、なんとも刺激的だった。今、自分にとっては目の離せない人だ。

この日はもうひとつ、京都の祇園にある京都現代美術館「何必館」へも出向いて知人の吉田カツ氏の個展に顔を出した。もうカツさんも70歳ということだ。元々はイラストレーターで一世を風靡されたお方だ。最近では、内省的な絵を展開されているということで楽しみに伺った。
植物の絵に心動かされるものがあった。

一日で大阪と京都を廻って日帰りするという行程はやっぱりきつかった。無謀だよな。


最近では、日本橋タカシマヤで開催中の「東恩納裕一展」に行った。
ファンシーな中に潜むグロテスクさ…テーマはなるほど面白いと思うが、つい絵画好きの自分としては満たされずに会場を後にする。
「東恩納裕一展」は、6月10日[水]〜22日[月]まで新宿タカシマヤでも開催される。

同じタカシマヤの中で、一昨年に103歳で亡くなった日本画家の片岡球子の追悼展が開催中だった。ラッキー!この人の豪快さが好きなので、ほんとは時間がないのに、拝見させていただくことに…。
50歳のときに女子美術大学の先生になって、時間にゆとりができて制作に力が入っていったようだ。それ以前の絵はやはりまだまだ片岡球子になっておらず、50歳を過ぎ、60歳に近づいてようやく球子スタイルが確立されていく。70歳あたりからの作品が凄い!
これはボナールという画家にも同じことが言える。彼も60歳、70歳になるにつれいわゆるボナール的な作風になる。また作品のサイズがどんどん大きくなるのが面白い。
絵というのは、年齢を重ねることでにじみ出てくる何かがあるということだ。
しかし、見落としては行けないのは、継続して描き続けていくことであり、思考し続けるということだ。



ⓒhiroki taniguchi 2009<br>「mi・ra・i painting」
ⓒhiroki taniguchi 2009
「mi・ra・i painting」

他には、東京工芸大学が「みらい博」というイベントを開催し、それに出展する作品として「液晶絵画」をM&M協力のもと制作した。ジュリアン・オピーみたいなことなんだが、ゆっくりと変化する何気ない風景という映像を作った。見直していく部分は多々あるが、なかなか手応えのあるものが自分としてはできたと感じている。これをさらにブラッシュアップして映像系、メディア系のコンペにでも出そうかと考えている。


そして最後に本日は、ALL谷研のメンバーで美術館見学研修旅行を実施した。川村記念美術館にバスで出かけた。
イラストレーション研究室の学生たちにマーク・ロスコを観せ、それぞれに感じたことを今後の作品づくりに反映させてもらえればと考えてのことだ。現在進行形のイラストレーションを観ることは彼らにもできることなので、絵を創造するということの根っこの部分を刺激することを行いたいと常々考えている。
もうひとつの理由がある。イラストレーション研究室ではあるが、ほとんどの学生の描く絵は、ファインアートのフィールドに寄っているからだ。
絵を描きたいと思う学生が油画や日本画にではなく、こういう場所に来る傾向が最近は多いと思う。こういう奴らをどうするかがまた面白いところだ。


…とまぁ、日々創造的生活という感じで過ごしている。




2009年5月10日[日] 再びカレイドスコープ

3月に嵌まったカレイドスコープ(万華鏡)。
麻布十番にある専門店「KALEIDOSCOPE MUKASHI-KAN(万華鏡専門店 カレイドスコープ昔館)」を訪ねてみた。

 → KALEIDOSCOPE MUKASHI-KAN

15年前から開業しているそうだ。
とにかくたくさんある。手のひらに納まってしまうものから、ガリレオが使っていたんじゃないかなと思わせる立派なものまで所狭しと陳列されている。いろいろと覗いては試し、お気に入りを一本購入した。黄金崎クリスタルパークで買ったものとは見え方の性格が全然違う。外観も木製のしっかりしたものだ。

クリスタルパークで購入したタイプのもの(WAND SCOPE)は、宇宙観または霊的世界観が間近に展開され、無限の広がりを持ったビジュアルが色彩と光とともに眼前に展開され、あたかもその世界の中に侵入していくというかすでに存在し入り込んでいると錯覚させるのが気持ちいい。生まれる以前にこんな場所にいたんじゃなかったのかと想わせてくれるような感じだ。

今日買ったもの(OIL CHAMBER SCOPE)は、宗教的な無限の広がりというよりは、ある程度の奥行きの中で、形や色彩といったものを光とともに造形的な美しさとしてしっかりと見せてくれるものだ。

前者が昇天させてくれるような、あちらへ往ってしまうという感覚であるなら、後者のものは教会などで神秘体験をしてしまったような、こちらの世界にいながら悟るような感覚だ。

いずれにしても、何にこんなに惹かれてしまうのかと考えると、単純に美しいということがまずはある。その美しさの質が保たれながら微妙に変化していくこともその要因のひとつだろう。そして一番は、おそらく光とともにあることだ。

ステンドグラスもそうだ。長くなるが以前ステンドグラスについて書いたものの抜粋を記載しよう。

『教会の窓にしつらえられた色鮮やかなステンドグラス。
それは神の世界と人間の世界との間に介在し、霊的なことを喚起させながら両者を結びつける装置のようだ。

その仲介役を「光」が務めている。
光は神の使いのごとくその使命を果たしているかのようだ。

この世において、ものが見えるのには光が必要である。そのほとんどが見るべき対象に光が当たることでそのものが見えるようになっている。しかし、ステンドグラスは逆に正面から光が当たっている状態ではよく見えない。後ろ側に光があることで初めてその存在が見えてくる。光が表面に当たることで、あるいは光に包まれることで見えるのではなく、背後からこちらへ向かってくる、つまり光が透過することで見えてくるものだ。また、色彩はものの質を表すが、ステンドグラスを観るとき、そこには物質から解放された輝きに溢れた光そのものである色彩を視ることになる。ガラスに混在した化学物質によって着彩がされているが、その色彩はあたかも意志を伝える神の感情の幅のように感じられる。

ステンドグラスを観ることは、光を見る行為になりはしないか?ものが光とともに在るのではなく、光そのものを知るものとして在るということ。

神を感じさせる演出としての光の重要性ということだけではない何かを感じてしまう。ステンドグラスが教会という宗教的な空間にあるから、またそのテーマに基づかれて造られたものだから当然であるのかもしれないが、この世に在ってこの世にないみたいなところにとても惹かれるが、それは光について惹かれていることなのだろうか。あるいは神そのものであるのだろうか。

はたして光とは何なのか?』

万華鏡にはここまでの宗教的な匂いはないが、美を扱うものにとって光とは永遠のテーマだと言える。


また、今、森美術館で「万華鏡の視覚」という展覧会が7月5日[日]まで開催されている。

ただ単にぼくは流行りに嵌まってしまったのだろうか。あるいは、ストレスが知らずに溜まっていて、ギターをかき鳴らして歌うだけでは足らず、心身は万華鏡に癒しを求めているのか…。

 → 「万華鏡の視覚」




2009年5月6日[水] 久し振りに展覧会を観る


この連休の最中、三つの展覧会を観た。



ⓒMark Rothko
ⓒMark Rothko

●マーク・ロスコ 瞑想する絵画

まずはマーク・ロスコ展だ。
この機会を逃すと行けそうにないから思い切って足を伸ばす。

今回の展覧会のメイン作品である「シーグラム・シリーズ」の作品もよかったが、出口に近いところにあった、黒い作品4点が心に響いた。
アド・ラインハートの仕事を彷彿とさせる作品だが、やはり二人は意識し合っていたようだ。    →アド・ラインハート

カタログを買って、改めてロスコの言葉を追った時、小さな音を起てて何かこれまでの価値観が崩れていくのを感じた。

今まで、制作をするということは単純に自己表現だと考えていたが、実際に自分が表現しようとしていることはその真逆のことであったと理解した。自己表現などという自惚れたものではないことは確かだ。真の制作者はみな自己を超えている。

 → 「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」



ⓒLucie Rie
ⓒLucie Rie

●うつわ U-Tsu-Wa

21_21で5月10日[日]まで開催中の「うつわ U-Tsu-Wa」を観る。
もちろんルーシー・リーがお目当てだ。

楽しみにしていたが、自分にとってはなんともがっかりな内容だった。セレクトされた作品たちにある偏りを感じ納得がいかないのもそうだが、それよりもとにかく展示が悪い。器までの距離があり過ぎるので、実物を目の当たりにしているのにカタログを見ているようで歯がゆい。せっかく本物が眼の前にあるのだから、近くでディテールを観たくなるのが人の気持ちというものだろう。こんな発言をしたら会場構成をした安藤忠雄氏と企画ディレクターの三宅一生氏を否定することになるのだろうが納得のいかないものは納得がいかない。

自分の中のルーシー・リーはこんなんじゃない。もっともっと幅がある。確かに眼の前にある器たちは彼女の作品ではある。そうではあるが、いくつかの彼女の展覧会や作品集を観て築いてきた自分の中のルーシー・リー像とは捉え方が違う。
三宅一生という人のルーシー・リー像というのものを垣間見るのも面白いとは思うが、もはや美術を勉強している若者ではないのだから、自分の眼で意識で彼女の器を全方向的に観たいと願ってしまうのは仕方がないことだ。一般の方たちも単純にそうなのではないだろうか。
これまで、21_21ではいろいろな展覧会を観させていただいたが、もうひとつしっくりこない。なぜだろう?それは展覧会を自己表現してしまっているからだと考える。あまり展覧会をデザインし過ぎるのはよくないのではというのがぼくの想いだ。

ところで、ルーシー・リーの第二次世界大戦中〜後に制作されていた陶製のボタンの展示コーナーは圧巻だった。

 → 「うつわ U-Tsu-Wa」



「息で曇る」<br>2009 ⓒmio kaneda
「息で曇る」
2009 ⓒmio kaneda

●ARTIST FILE 2009 The NACT Annual Show of Contemporay Art

最後に、国立新美術館で今日まで開催していた、「ARTIST FILE 2009 The NACT Annual Show of Contemporay Art」だ。
出品作家の金田実生さんのファンだ。大平實や石川直樹もよかったが、やはりダントツで金田実生だ。彼女もやはりひとびとの中に潜む共通の何かをみんなの眼に見えるようにするために絵画制作をするひとりだ。
彼女の作品と向かい合うとき、自分が細胞レベルの感覚で対峙しているのがわかる。どこかこんな場所知ってたよなぁと絵を魅入ってはうっかりよだれを垂らしそうになるくらいうっとりして、気がつくと時空を超えた不思議な場所でふわふわしている。
彼女には、イラストレーション論にゲスト出演していただくことになっている。
学部も大学院も多摩美のグラフィックデザインを専攻した彼女がファインアートのフィールドにいることの秘密を自分が聞きたいから…。

 → 「ARTIST FILE 2009 The NACT Annual Show of Contemporay Art」




2009年5月1日[金] いい絵とは…

「水たまりをびちゃびちゃ歩く精神」<br>2008 ⓒhiroki taniguchi
「水たまりをびちゃびちゃ歩く精神」
2008 ⓒhiroki taniguchi


ときどき、どんな風に絵を描くんですかと聞かれることがある。

描き方の記憶をたどる。
正直、思い出せない。
いや、もちろん思い出せるものはあるが、不思議とそういったものに限って自分では気に入っていない作品だったりする。

気に入っている作品のプロセスはどういう訳か思い出せない。

自分が描いているのに自分で描いているような気がしないものにいいものがある。
この描かされている感覚。描かされているとはその都度考えもしないのだけれど、結果的に描かされているこの感覚。

谷口はいつも絵を描くことを願っている。しかもいい絵を創ろうと。
その念いが何かに通じるということがあるんだと思う。
で、谷口が絵を描き始めると、そこに何かが降りてくる。
その瞬間、谷口はフィルターというかひとつの表現のメディアとなる。
そこを通過させてみようという大きな意志のようなものが働いたとき、ぼくはイタコになってしまうから、当然そのときのことを思い出せない。あの世の記憶を消されてこの世に生を受けるように、絵を描いているプロセス、つまり霊的な場所でのふるまいは記憶として残されない。

そう、本来の表現というものは霊的な作業だと信じている。

絵を描いているときのことを思い出して、それを敢えて口にするならば、

「自分で描いておきながら 自分を感じさせないこと 欲を言えばさらに自分を超えたものになること…と願いながら手を動かすこと」

ということになるだろうか。
全く参考にならないか…(笑)。