お猿の戯言 homosapiensaru's babble
2011年10月26日[火] シルクスクリーン工房へ
クリエイティブ大学の近くの版画工房へシルクスクリーン印刷による作品のチェックに行った。
3月11日に大震災が起こった後、クリエイティブ大学のみんなが日本への励ましのビデオレターを作り贈ってくれた。とても暖かいものが動画から溢れていて、目頭に熱いものを感じたものだ。
その後日本を思慕し、「日本とポルトガル」をテーマにしたシルクスクリーン印刷による版画作品を作り再び贈ってくれた。
これに対し、我々も何か応えなくてはということで、私の学生たちに同じテーマで版画作品を作り応えることにした。
とっても素敵な工房の1階にネットを介して送ったデータが版画作品となってラックに積まれていた。
何だか感動だ。
向こうが指定した同じ版数で同じ色で制作することで、日本とポルトガルの違いや変わらないことが見える作品となって興味深かった。
工房のオーナーと刷り師たちとも出会え、ハッピーな時間を過ごす。
クリエイティブ大学の先生も学生たちもみんなとても暖かい。
この交流をぜひとも続けて行きたいと願う。
2011年10月25日[火] ワークショップ
いよいよ、この出張のメインイベントであるワークショップを実施する日が来た。
イラストレーションとアニメーションのワークショップを行った。
私は、ポルトガルの学生に水墨画に挑戦してもらおうと思い、日本から和紙やら筆やら墨汁やらを用意し、プロジェクションによるSAN・SUI・GAについてのプレゼンテーションを行ってから、彼らに「パラダイス」をテーマに大きな和紙にグループを作り描いてもらった。
「戸惑い」を期待していたが、意外にもみなさんスッスッと筆を運ぶ。
実際に、日本の若者(私だって)でさえ、水墨画には慣れているとは言えない訳で、東洋や日本の伝統的表現などと口にするもののその差が一体どこにあるのだろうか。
出来上がった作品は、決して所謂水墨画という代物には少し遠いが、面白いものが描き上がった。
日本の学生とポルトガルの学生が競い合ったとしても、その出来映えはあまり変わらないのでは?と思った。
6グループの絵が仕上がった。最後に講評会をして終わった。
初めにイラストレーションチームの講評をし、続いてアニメーションチームが行ったが、動くってずるい!
2011年10月23日[日] ナザレの朝、ホテルにて
おはよう。
昨晩もよく食べ、よく呑んだ。
そんな訳で今日も快便である。
しかし、不思議なことだ。
夕べ食した料理が私が指令せずともちゃんと消化されている。
自分のコントロールの効かないところで私を活かしているものたちへの感謝の思いが便器の上で募る。
私が私であるということに強くこだわる私が今生で生きていくためには、自分にはコントロールできない大きなシステムに属するものたちが私に関わり、私の肉体の中に存在するということを理解することが重要であるとナザレのホテルのバスルームの一隅で感じている。
肉体というものが今生の私の魂を乗せる船であるなら、乗り物としてその船が、私が消滅するまで維持されるためには、私の精神が関わりながらも個人的な思いとは異なるすべてのものに共通する役割を持った何者かの力が必要だ。
私が私として死を迎えるまで私であろうとする意思が私をまずは生かそうとするのだが、その上でさらに魂の進化を遂げるには私の中に在りながらも私に隷属しないニュートラルな私の働きが不可欠だ。
自分の中に意思が通じる自分とそうでない自分が混在して自分を形造っており、それらが私となっている。
呼吸をすること、血が全身を巡ること、空腹を覚えること、摂取した食物を消化すること、それらを排泄すること、瞬きをすること、傷が癒えること…などなど、肉体が維持されていくために必要なことを私が命じた記憶は無い。自分には無自覚なその力のお陰でこの世で魂が生きて行くための肉体が生かされている。
私が私としての生を全うするということは、私の念いを達成させ、魂の進化ということが起こってこそのことだが、それはあたかも自分の意思で生きていることの上で行われていると勘違いしやすい。実はそうでなく、何者かに生かされているということの事実を理解した上でこそ初めてできることなのだ。
瓢簞にどうやって鯰を入れようか?
2011年10月22日[土] ナザレにて
ナザレでの小田部羊一氏とアニメーションの演出家である和田敏克氏(アニメーション学科の非常勤講師でもある)との講演会は大成功を収めた。最後の質疑応答も時間が足りない状況となり、満員の会場は熱気に溢れた。終わった後も小田部氏にサインを求める人の列が続いた。
日本大使館の方たちも、これまでポルトガルで世話になった日本人スタッフたちもみなさん小田部ファンで、コインブラやらリスボンからわざわざナザレまで足を運んでくださった。
ここナザレのホテルが素敵だ。
私の部屋は海に面した角部屋で最高だ。
ここでこうしてのんびりしていると、ポルトガルが経済危機に瀕しているとはまったく思えない。むしろパラダイスのようである。いや、パラダイスだ。
ここのホテルの一階のレストランの食事が窓外の海景と同じくらいイカス。
肉、魚、野菜どれをとってもエネルギーがあり旨い。
とにかくポルトガル滞在中はよく食べ、よく呑む。
いつも腹一杯に幸せを詰め込んで朝を迎える。
2011年10月21日[金] ポルトのホテルにて
また、ポルトガルへ来ている。
五回目の訪ポとなる。
二年間に渡り、四ヶ月半毎にポルトガルへ来ていることになる。
プロジェクト最後の訪ポとなる。
クリエイティブ大学との交流は今後も続けて行きたいと思う。
が、どのように継続して行くのかを検討せねばならない。
ポルトガルへは20日に入り、25日にクリエイティブ大学でアニメーションとイラ
ストレーションのワークショップを行う。
昨日、リスボンからポルトへ列車で移動し、明日はナザレへバスで向かう。
今回は、素敵な方が同行されている。
「アルプスの少女ハイジ」の作画や任天堂のマリオを手がけ、現在ではポケ
モンの監修をされている小田部羊一氏だ。
穏やかなとっても素敵な方だ。
明日、ナザレの市立図書館で講演会を催すことになっている。
楽しみだ。
お決まりのポルトのドーロ川河畔の夜景だ
2011年10月14日[金] TOYOTA
出勤途中のJRの車中で見かけた車額広告だ。
久しぶりに手応えのある広告とご対面。
TOYOTAの広告だ。
何を宣伝しているのかわからないのだが、企業の強い意志と妙な期待感を抱かせるものだった。
こういうものに触れるとわくわくして、クリエイティブのモチベーションが上がってうれしい。
2011年10月10日[月・祝] フィリップ・ワイズベッカー
フィリップ・ワイズベッカー展へ行く。
目黒通りにあるホテル CLASKAの2階にあるギャラリー&ショップで23日[日]まで開催中だ。
日本(東洋)のパースペクティブ(逆遠近法)をアレンジした彼独特の素朴な表現がいい。
一見あざとく見え兼ねない数歩手前のところで思慮深く素朴さの範囲にきちんと収めている。憎いね。
単純でいて、奥行きのある味わいのある表現には、彼独特の技があり、額装等の見せ方も巧い。
学生たちよ!勉強になるぞぉ〜!ぜひ足を運んでほしいなぁ。
この展覧会場であるホテル CLASKAは、老朽化していたホテルニューメグロを、気鋭のクリエイター達が「どう暮らすか?(クラスカ)」をコンセプトにリノベーションし、2003年9月にオープンした場所だ。
この建物を見るだけでも、1階のロビーにあるカフェ(食材に気を遣ったメニューが心憎い)を利用するだけでもいいかもしれない。2階にあるショップの品揃えを眺めるだけでも今のある側面を感じ取ることができるかもしれない。興味深い場所だ。
フィリップ・ワイズベッカー展は、乃木坂駅近くにある gallery ART UNLIMITED ギャラリー・アート・アンリミテッドでも16日[日](13:00~19:00 )まで開催中だ。
港区南青山 1-26-4六本木ダイヤビル3F
☎03-6805-5280
→ http://www.artunlimited.co.jp
2011年10月9日[日] 朝鮮絵画
日本民藝館に行く。
今、チラシのメインビジュアルになっている蓮華図の前にいる。
どういう訳か蓮というモチーフを好む自分がいるので、どうもそれに振り回されているという感もあるが、この絵に惹かれるのはなぜか。
この絵には上手さは無いが、旨さがある。
技巧的にどうのこうのという前に旨味というものが無意識にもスパイスされており、その味わい深さに舌鼓を打ってしまうといったところか。
絵画的な様相というものにはなりきらない(というよりは、なりきれない?)が、それを土台にしながらも装飾的な様式美を伴う未分化な造形性といったものに面白さを感じるのだろう。
気負いやてらいといったことのない屈託のない表現、いや、表現なんていう言葉さえおこがましい、すっとぼけたものがただそこに在るという決して完璧ではないが少々凸凹したものを認めながらもその存在の愛おしさに眼を細めてしまうといったところだろうか。
対象をシリアスでなく朴訥に捉える感性や、その様式化や図案化、たどたどしいながらもそれらを収めるための構図や墨の濃淡や色遣いといった技法などが心地よいノイズと共にうまく醸され、絵の旨味となっている。
ニューヨークのメトロポリタン美術館にあった蓮を描いた軸絵を前にしたときにも魂が喜んだ。
他にも日本や東洋系の優れた絵がたくさんあったにも関わらず、その蓮の絵の前で釘付けになった。今、眼前にある蓮華図と比較すれば、その絵にはもっとシビアな緊張感があったが、絵の構造的な体質は二つともよく似ている。
こうして明文化すれば自分が好むものの傾向がよくわかる。
自分にとって心地のよい絵の造りと好みのモチーフが合わされば否応なしに触手は延びるものの、ジャッジする眼はより厳しくなるというものだ。その上でこの蓮華図が善きものとして生き残るのだから自分にとってこれはなかなか得難い収穫物ということになる。
好みのモチーフが描いてあれば絵として善しということにはならない。
絵の善し悪しは、当たり前だがあくまでもその出来映えに左右される。
ということは、自分が絵の善悪を観るとき、考えるとき、問題にしていることは絵としての構造そのものだということになる。
ところで、人の興味あるものとないものというのが、どこからきているのかということが気になる。自分の中に「蓮」に対する何か熱いものがあるのを感じざるを得ないのだが、一体全体「蓮」というものに、あるいはそのイメージというものにいつどこで接触したのか?その起源を知りたいと強く思う。その限定された時空を探れるものなら探ってみたいと願う。
2011年10月8日[木] 秋葉原
今年度の卒業・修了制作展の会場が六本木ヒルズから秋葉原のUDXとベルサールの二会場で行われることになり、その視察のために秋葉原へ出かけた。
卒業制作展実行委員長と事務方、総勢6名で会場を見学し、導線等を考えるため付近を見て回った。任務遂行後、折角だからとフィギュアーのお店やらに入り、コミック系クリエイティブの最前線も視察。
その後、メイドカフェを覗くことに…。
こういうところはどうも苦手だ。
まぁ、でも楽しみましたよ。ホットケーキを頼み、メイドさんにお絵描きをしてもらいました。
萌え声で「何を描きましょうか?」と聞かれ、どういうわけか思わず思いついたものをリクエストした。
「さんま、お願いしま〜す!」
というと、「え〜、さんま見たことありませ〜ん。どうしよう〜!?」と眉が八の字になった。
それでもがんばって描いてくれたのがアップした写真だ。
一時間ほどの間にもいろいろあって、楽しく過ごさせていただいたが、まぁ、望んではもう決して行かないと思います。とにかくいい経験ということで…。
秋葉原はきれいになったと聞いていたが、相当久しぶりに出かけたが、そのUDXだとかいくつか大きなビルが建っていてその理由は理解できたが、自分にとっては悪い意味ではなく、相変わらず秋葉原は秋葉原じゃないのかなぁというのが正直な感想だ。ずーっと秋葉原に通っている人たちにとってはいろいろあるんだろうが。
ところで、肝心の秋葉原での卒業・修了制作展だが、当然うまく行くことを願って止まない訳だが、六本木ヒルズの客層と全く人の質が異なるので、予測できないことが多そうだ。
今後、広報等の作戦を練る必要がある。
2011年10月4日[火] 秋
朝、駅へ向かう道すがら神社の境内を通り抜けようとすると、神輿が収納されている倉庫のトタン屋根の方からばらばらっと音がして、思わず頭に手をやろうとしたら、目の前に黄色い小さな丸いものが転がった。
銀杏(ギンナン)だ。
もうそんな季節なのだ。
研究室のある建物に近づくと覚えのある香りが鼻先をふわ〜っと刺激した。
えっ、もうキンモクセイの花が咲く時期なのだ。
今年は、大震災があり、どこか感覚が麻痺している。
ついこの間まで暑かったから、この急な秋への変化に対応できないでいる。
しかし、確かに季節は巡っている。
植物たちの胎内時計はきちんと動いている。
見習わなくては…。
2011年10月3日[月] 忙しいを理由に…。
もうずいぶんダイアリーを更新していない。
途中、海外出張の話をアップしたが、それさえ最後の日がまだ書いていないという有様。
最後のダイアリーから今日まで、いろんなことがあったので、なんとか綴ろうと思っていたが、あまり気負い過ぎず行くことにした。
見返してみると、6月2日に見出しだけをアップしたままになっている。
4年間連続して教わった小学校の先生が定年後に絵を描かれるようになって、上野の森美術館で開催されている女流画家協会展に出品されているということだったので、写楽展と併せて観に行った話を書こうとしてからこんなにも時間が経ってしまった。
Klee、歌川国芳、空海など、展覧会もいくつか観たが、どれも血となり肉となっている。
美術は面白い。
映画も最近ではロードショーを割に観ている。他ジャンルの表現も見逃せない。
せっかく、ネタはあるのに活かせないこの時間の無さ。
これも4月からデザイン学科の主任教授という大役を仰せつかったことで忙しくなってしまったからだ…という理由にしている自分が情けない。
逃げ道は作ってはいけない。
ちょっと思ったこと、感じたこと、自然に書いて行こうと思う。