お猿の戯言 homosapiensaru's babble


2014年1月11日[土] 造形性について その1



「造形性」という言葉が頭の中で広がる。
今、改めて自分の中に在る「造形性」という言葉の持つ意味は何かを整理せねばならない。

大学時代、パウル・クレーに傾倒し、クレーの著書である「造形思考」を紐解いた。「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることである」というクレーのこの言葉に本質的なものを感じ、眼の前が開けた。それ以来、絵を描くこと、そして出来上がったものの中に「造形性」というものを求めるようになった。

頭の中にあるイメージを眼の前に現出させようとするとき、眼に見えるようにするときに、造形思考が必要とされる。眼の前に取り出そうとした瞬間からそのイメージに何かが起こる。松岡正剛氏はそれをクレーは「分節の開始」とみなしたと言う。見えるようにするにはイメージそのものを分節していかなければならないと。さらにイメージの本質が分節にあると。イメージはなんらかの造形思考を開始することによってしか取り出せないということであり、造形(フォルム)にとって最も重要なこととは、「分節」ということであり、つまりそれはアーティキュレーションだということをクレーは実践していたと。

私の精神的活動の領域に飛来するイメージを絵画としてこの世の次元に現出させようとする訳だが、それが芸術の領域に置かれるには、松岡正剛氏の引用するロラン・バルトの「芸術作品は歴史がみずからの満たすべき時間をすごしている様式である」と、ウンベルト・エーコの「芸術作品は歴史と心理が異なる情報を受信した者が描いたテクストである」という定義を満たすものになっている必要がある。クレーはその両方の定義に適う作品を描き、言葉でも論証した稀なアーティストの一人であると松岡氏は言う。

納得である。が、最近自分が日本人として違和感を持って考えることがある。いろいろな概念が西洋の文脈で語られる中で、東洋、はたまた極東におけるよしとされる(敢えて)芸術作品(特に絵)についての概念を考える必要があるということだ。これについてはまた改めてやりましょう。


©2013 Hiroki Taniguchi「天気がよくなりそうだから出かけることにする」162.0×133.0cm Pigment on Canvas




2014年1月5日[日] 皇居にて



母たちと皇居に遊びに行きました。
気が清々しくうつくしい場所でした。





2014年1月1日[水] あたらしい いちねんが はじまりました

神楽舞台の上でお囃子を演奏している
神楽舞台の上でお囃子を演奏している
神殿脇の松明と提灯
神殿脇の松明と提灯



あけまして
おめでとう
ございます

年が明けて早速ご近所の氏神さまを詣でました。
柏手を打った後、お神酒と歳餅とお汁粉が振る舞われます。
写真には納めることができませんでしたが、
今回はタイミングよく獅子舞にも遭遇できました。
焚火の横でお汁粉を啜り、身体を暖め、
小さな神楽舞台から流れる生のお囃子を聞きながら、
去年の恥ずかしい煩悩に苦笑しつつ反省をします。
そして今年一年の幸せを想像してみるのです。

いいことがありそうです。

あたらしい
いちねんの
はじまりだ